日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、古くからなじみのあった経典であったことが伺える。
606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した 。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けていた。
聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
天台宗の最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
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鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。一方で浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、自らさとりに向かうことのできない凡夫の救いは浄土三部経に説かれているとし、それを正依としたが、法華経を批判する言葉は見いだせない。阿弥陀仏の久遠成仏説などは法華経の影響といえる。曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。